んちゃ✋
今回めちゃくちゃ写真多いので重いかもしれませんm(_ _)m
桶川飛行学校平和記念館
概要
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場では、1937年(昭和12年)6月の設置から1945年(昭和20年)2月の閉鎖までの間、少年飛行兵や学徒出陣の特別操縦見習い士官など、延べ1,500~1,600人の航空兵の教育が行われました。
その後、戦争末期には、特別攻撃隊の訓練場となり、昭和20年4月には特攻隊員12人を鹿児島県の知覧特攻基地へ送り出しました。
戦後は、海外からの引揚者等のための寮(通称:若宮寮)となり、昭和31年頃には64世帯・300人程度が暮らしていました。平成19年3月に最後の入居者が転出されました。
以前は当時のまま残っていたみたいなんですが、老朽化もあり平成30年から令和2年にかけて復元されました。
なので現在は当時の建物じゃなく復元されたきれいな建物になります。
それでも当時の生活が感じられます。
施設案内
- 住所 埼玉県桶川市大字川田谷2335番地の16
- 電話 048-778-8512 FAX 048-778-8516
- 開館時間 午前9時~午後4時30分
- 休館日 月曜日(祝日の場合は翌日休館)毎月末日(日曜日の場合は開館)年末年始(12月27日~1月5日)その他特別整理期間中
- 入館料 無料
- 駐車場 有(台数に限りがあります15台くらいだったかな?)
入り口に飛行学校の説明などの看板があります。
弾薬庫
最初は訓練施設だったため大きな弾薬庫は必要なかったみたいでかなり小さいです。
場内
施設の跡地や以前使用されていた井戸などが残されています。
75年以上前にここで実際に訓練など行われていたんですね。
守衛棟
ここで見張りなどをしていたんですかね。
車庫棟
ここでは車両の修理などが行われていたみたいです、現在は施設の紹介になってます。
兵舎棟
復元されてとてもきれいになっています。
受付をしたら順路に従って見学できます。
学校と戦争
最初の部屋は学校の紹介と戦争についての説明があります。
当時使用されていたノートや飛行に使われていた物が展示してあります。
ノートにはものすごい難しい計算式などが書いてありました、当時の若いパイロットの方は優秀な方が多かったんですね。
学校生活
1日の流れについての説明や生活などがわかります、訓練時間が終わった後の自由時間の写真などを見ると今の若者と何も変わらないんです。
運命って辛いですね。
寄宿室
かなり気付きつにベッドが置かれています、この中で寝るのは今では考えられないですね。
飛行学校から戦地へ
ここは一番つらい展示になってます。
訓練施設だったんですが不足する戦力を補うために熊谷の陸軍飛行学校の機能が停止、訓練施設ではなく第52航空師団第6練習飛行隊として改変され、それに伴い桶川の分校も閉鎖、以降は特別攻撃隊の訓練施設として使用されます。
展示物
隊員の装備などです。
特別攻撃隊の説明
特別攻撃隊は爆弾を装着した航空機で敵艦に体当たりして操縦者の死を前提とした作戦です。
航空機だけじゃなく魚雷に人が乗る特別攻撃隊もありました。
遺書もありました、家族に向けての手紙です。
これを読んだ時は辛かったですね、国のためとはいえ自分なんかよりかなり若い人たちが死を覚悟して手紙を書くなんて…
恐怖がどれほどのものかなんて想像もできません。
平和に向けて
復興に向けての解説など
これで宿舎棟の展示は終了です。
教室棟(跡地)
宿舎の裏に出ると教室の跡地があります。
ここで実際に勉強していたんですね。
便所棟
キレイに復元されていますが当時はこんな感じだったんですね。
まあ、子供のころはこんな感じのトイレは普通にありましたが。
最後に
訪問したのが8月の13日で終戦の2日前です。
本当は終戦の日に行こうかと思ったんですがかなり混むと思ったのと1人でゆっくり見たいので、1人で自由に動ける日に行ってきました。
それでも駐車場はまあまあいっぱいでしたね、施設内はそんなに人がいる感じはしなかったんですが。
以前はこの時期になると戦争についての話題がテレビでたくさんやってましたが、最近はかなり少なくなってきました、風化させないためにもこういう施設は残していかないといけませんね。
今の平和な日本があるのは当時の若者が国のために頑張ってくれたおかげだと感謝するいい機会になりました。
戦争は絶対にダメです、もう二度とこんな施設が必要とされる時代が来ないことを祈ります。
近い人は是非行ってみてください。
復興されたのは嬉しかったですが、復興前のリアルな施設を体験してみたかったです。
では✋